【赤ちゃんポスト1号さん】過去~現在

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はじめに

熊本県熊本市の慈恵病院で「こうのとりのゆりかご」(通称:赤ちゃんポスト)が開設されて15年が経ちます。

赤ちゃんポストに預けられた第1号の子供は今どうしているのでしょうか。

【赤ちゃんポスト1号】宮津航一さんの現在

赤ちゃんポストに預けられた第1号の宮津航一さん。

結論から言うと宮津航一さんはあたたかい里親と兄弟たちに囲まれ幸せな家庭に育ち、現在は公立大学に通っています。

そしてボランティアに励み、赤ちゃんポスト出身の160人の子供たちが繋がれるネットワークを作りたいという志を持っています。

航一さんは大学での授業に加え、陸上同好会の部長、月に1回の子ども食堂、月に2回の大学生・専門学校生への食料配布を開催して活動の場を広げる。また県警の本部長から委託された少年サポーターとして、子どもたちの居場所づくりを支援するなど、「他者のために何かをしよう」と多忙な日々が続く。


さらに熊本ファミリーホーム協議会への参加や父の美光さん(65歳)、母のみどりさん(64歳)と一緒に里親フォーラムなどでの講演、シンポジウムへの登壇など活動は多岐に渡り、「子どもたちのための居場所づくりや地域のつながりづくり」を目標にして奔走する。

立派な青年に育ちましたね!航一さんの夢が叶うよう応援したくなりますね。

やはりどういう家庭環境で育つかが子供の幸福度を決めるポイントになるのですね。

講演会では「家制度や血縁が重んじられるけれど、里親や特別養子縁組で育つのも、家族のひとつの形だとわかってほしい」と訴える。

子供の頃実の親から辛い仕打ちを受けていた私は血のつながりってなんだろうなって考えた事がありました。施設であたたかく迎え入れてくれる職員がいる環境の方が私にとっては良い環境だったのでは?と考えたりもしました。

だから私は自分の事をあたたかく迎えてくれる人たちがいれば血の繋がりなんて関係ないと思います。

不妊治療をしていた時、本当に子供を授からなかったら養子でも良いのでは?とふと考えた事もありました。

だから里親や特別養子縁組は子供を育てられない環境の家庭と新しい家族と楽しい家庭環境を作りたい家庭とをつなぐ架け橋だと思います。

宮津家の子育て

「ゆりかご出身ということを委託直前に聞き、事情を聞いてかわいそうにと思いました。でもそんなことは関係なく、みんなでかわいがって育てようと話し合い、お兄ちゃんたちもかわいがって一緒に遊んでいました」

夜になると両親と3人で川の字になって寝た。ところが最初のうちは夢を見て泣く。指しゃぶりもひどかった。「心に傷を負っているんだろうな」と改めて夫婦で話した。

全てが手探りだったが、お好み焼き店を営む夫婦は航一さんを伴って出勤し、店が忙しいときはひとり遊びをさせて、忙しいランチタイムが終わると草滑りに美光さんが連れだした。

子ども好きな美光さんがボランティアをしている先にも航一さんを伴い、地域の子どもたちと遊ばせた。教会のミサにも連れて行き、人前で聖書を読んでも動じなかった。

「地域の人がたくさん関わってくれて、それが自信になったようだ」とみどりさんは分析する。

「字を覚えた時に初めて書いた文章がすごいのです。僕はこの子は天才だ、と驚きましたよ」と美光さん。そこには「ぼくのいちにちは とてもたのしいいちにちで おかあさんを おとうさんととりあいます」と微笑ましい様子が書かれてあった。夫婦はできるだけ航一さんを一人にしないよう、家族の誰かが常に関わるようにしてきた。

子供をできる限り一人で過ごす時間を減らす。地域との関わりを増やす。我が家でも実践している事なので大きな自信になりました。

航一さんの本当のお父さんとお母さん

小学2年生のとき、ゆりかごに託した東日本に住む親戚がみつかり、生い立ちがわかった。その親戚は、ゆりかごに置かれていた「お父さん、お母さんへ」という手紙を持っていたので、預けたことは間違いなかった。

その年の夏、美光さんと出生地を訪ねた。実母は航一さんが5カ月の時に事故で亡くなっており、寺で消息を尋ねると、父親はわからなかったが、実母と住んでいたアパートや食事をしていた店も分かった。

母親は航一さんをとても可愛がっていたという。墓参りをして、墓に近いところにあった石を拾って持ち帰った。実母は自分を棄てた訳ではなかった、という思いを持って……。

「お母さんが亡くなっていて、お父さんはわからないということは悲しい事実でしたけれど、航一は小さかったので、ありのままを受け入れたという感じで、帰ってきてからもいつも通りでした。

その頃は店をやめてファミリーホームをしていましたので、里子たちはそれまで育ってきた環境は違うけれど、旅行に連れて行ったりして、みんなが楽しく暮らせるようにしていましたね」(みどりさん)

「父がいろいろ実母に関することを調べてくれました。すでに真実告知を受けていましたし、欠けている1ピースを探してくれる努力をしている姿を見ましたので、生い立ちを事実として受け入れられました。

今では、一般的に養親さんが協力すれば、出自を知るハードルはそんなに高くないと思います」(航一さん)

自分の本当の両親を一緒に調べてくれるなんて良い両親ですね!
そうやって親と一緒に考える経験があったからこそ公立大学に進学もできたのですね。

さいごに

家族に愛され、健やかに成長していった。

兄たちから話を聞き、側でみて育った影響は大きかった。兄がそうであったように、中学校で生徒会長を務め、高校では陸上に励み、100m走に励んだ。

高3の時には10秒96を記録し、充実した学生生活を送ることができたようだ。反抗期もなく、両親と共に地域ボランティアを続け社会に目を向けることを学んだ。

ゆりかご出身を公表し、何かが変わったのだろうか。公表後のある日、高校時代の友人から連絡が入ったという。

同級生たちは、生徒会長やったり、陸上で記録を出したり、トントン拍子でうまくいっている生徒とみていたようだ。「宮津も大変な思いを抱えて生きてきたんやな」といった予想以上に温かいメッセージが届いたという。

「隠していたというより伏せていたという感じですかね。ゆりかごのことも養子縁組も里親制度のことも周りがまだ理解してくれていなかったので言えなかった。

一人一人説明するのも大変なので、言わないで普通に過ごしていたほうが楽かなと思っていたんです。しかし公表したことで、生い立ちを隠さずに、フタをせずに話せるようになったのは大きかったです」(航一さん)

あたたかい家族に囲まれ、同級生からも愛される。
うちの子供たちもこうなれるよう今日も子育てを頑張ります。

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