はじめに
秀吉の妻・淀君は度がすぎる教育ママぶりで子育てに失敗した事で有名です。
現代に生きる私たちは彼女から何が学べるのでしょうか。
今日はPRESIDENTの記事から日本史に残る教育ママの失敗について学んでみます。
教育ママで子育てに失敗した秀吉の妻・淀君
なぜボンクラ息子の秀頼が誕生したのか?
「教育ママ」は昔からいたのか。歴史小説家の永井路子さんは「日本史で教育ママというと、豊臣秀吉の妻、淀君がいる。息子の秀頼を父親と同じ関白にしようと大事にしすぎた結果、一人で馬にも乗れない超肥満児のボンクラに育ててしまった」という――。
秀頼を過保護に育てすぎて1人で何もできない子になる。現代の過保護な家庭に通じるところがありますね。
子育てに適した住まい
中国の大学者孟子は、子供のころ墓場の近くにすんでいたので、葬式のマネばかりして遊んでいた。これではいけないというので、孟子の母は市場の近くに引っ越した。すると孟少年は、こんどは「売った買った」と商売のマネばかりする。これも教育上よろしくない、というので学校の近くに移ったら、やっと勉強が好きになったというオハナシ。まさに越境入学そこのけの涙ぐましさではないか。
このお話も面白いですよね。住めば都ではあるけど、子供を育てる環境にふさわしい場所はあるものですね。
決してマイホームは値段だけで選んではいけないですよ。マイホームの周辺環境も大事。
普段は倹約生活をして自分たちで買える範囲で良い環境を探すのがベストですよ。
教育ママ・淀君誕生
秀吉の妻・淀君は秀吉が生きている頃は夫の権勢には無関心で何一つ口出ししていません。
ところが一度母親になると急変。秀頼が生まれると淀君は正妻おねねがいる場所では過ごせないので無理を言って淀に城をつくってもらいます。
秀吉の死後は淀君の前には秀頼しかいなくなります。
秀頼が大坂城の城主になると彼にぴったりと寄り添い離れません。政治面でも口を出すようになります。
淀君が権力に興味があるなら子供をほったらかしにしてでも政治に一極集中するはずですが、いつも秀頼を立てているところを見ると子供を第一に考える人生なのでしょう。
これも現代の過保護な家庭を彷彿させますね。
権謀オンチの淀君は秀吉の死後、豊臣陣営が不安定な情勢の時期にすぐに最大のライバルであるおねねを大坂城から追い出し、政治家としても失敗。
この時期に最大のチャンスであったライバル派閥を取り込むことはできませんでした。多少の我慢をして北政所を立てれば後にみじめな最期を迎えなかったはずです。
秀頼を独占し、何事も秀頼第一。
その露骨すぎる姿がどんな手を使ってでも子供を一流校へ!と張り切る行きすぎたママに似ています。
帝王学を教え込む育児法も大失敗
淀君は秀頼に父以上になってもらいたいと願っていました。
「おとうさまは偉かったけど、ほんとうのこといってガクがおありにならなかったわ。あなたはそれじゃだめよ」
そう言いながら帝王学の書である「樵談治要」を与えます。
淀君は学あり権力ありに育つよう秀頼に望んでいました。
そして大事に育てすぎて秀頼が超肥満児になり、馬にも一人で乗れなかったという話もあります。
また秀吉と秀頼の生まれ持った能力の違いを見抜けなかったのも災いして子育てに失敗したようです。
現代だってよくあることだ。社長の子が社長にむかず、東大出の二世は必ずしも東大にはいれないのに、それに気づかないママが何と多いことか――。
親がどんな人間であろうとそれが子供には引き継げるとは限らない。普段から子供をよく観察して子供の能力を見抜いて導いてあげないといけないですね。
淀君はお世話になる行く先々がことごとく落城(企業倒産)し、落城に縁のある人生。
大坂冬の陣・夏の陣で徳川軍との戦いには一度も勝てず最期は自殺。
実はこの前に、家康は、秀頼が大和一国でがまんするなら命を助けてやろう、といっている。狸オヤジの真意のほどはわからないが、もしそれがホンネだとしたら、案外そのあたりが秀頼の能力にふさわしかったのではないか。が、わが子を愛したあまりその才能を過信した母はついに自滅の道を選んだ。
過当な期待でわが子を押しつぶす――そんなおろかさはお茶々(淀君)一代でたくさんだ。四百年後の現在までくりかえしたくはないものである。
子供がある程度の年齢になったら子供の能力の着地点がどの辺なのかを親は冷静に見れないといけませんね。